学生時、英語の時間の”真面目に発音したら笑われる感”を大人になっても感じる不快感。
英語の時間だけではなく、真面目に何かしたら、”真面目にしてかっこ悪い”感を感じるのは、世の中のことを何も知らない学生まででいい。
真面目で一生懸命なことがすべてと言っているわけではない。
そこに、効率とか、先進性とか、必要とは思う。
でも、それらに、真面目、一生懸命は共存はできるはず。
というか、真面目とか一生懸命を、”スカした”目で見ているのは逆にかっこ悪い。(完全なる主観だけど)
いや、ここで、そういう”スカした”人を下げたい訳でなく、
真面目で一生懸命であることを、推奨したいと思うのだ。
こういったことをいうと、「遊びがないとすぐつぶれちゃうよ」と言われそうだ。
いや、先ほども言ったように、真面目で一生懸命のみであれ、と言っているわけではなく、効率的とかの基本的ベースに、真面目で一生懸命な部分を持っていた方が、例え遠回りであっても、あとあとラッキーにつながると私は思うのだ。
フットワークが軽くても、真面目で一生懸命は共存できる。
流行に敏感で先取りしていても、真面目で一生懸命は共存できる。
ただ、真面目で一生懸命という肩書が”ダサい”という印象にしか過ぎないと思っている。
そう、学生時の”真面目に発音したら笑われる感”をずっと引きずってきているのだ。
私は、そんな感覚こそ”ダサい”と思う。
真面目にして何が悪い。一生懸命の様をみて、何がそんなに面白いのか。
ちょっと昔の話をしたい。
学生時、制服を着崩す、指定のカバンや靴を使用しない、そういうことが”かっこいい”と思っていた。
でも、そんな雰囲気の中、制服を着崩したりせず、指定のカバンや靴を、必ず使用して登校する同級生がいた。
そう、入学時から卒業までずっと。
その同級生は、私からは凛として見えた。
他の同級生も私と同じ印象だったのだろう、その子はみんなから頼られる存在だったし、周りはその子を笑ったりからかったりすることはなかった。
けれど、同じようにしようという同級生は少なかった。
やっぱり、自分の中の「真面目、一生懸命なんて”ダサい”」という感覚に勝てなかったのだと思う。
まあ私も、そのうちの1人なのだが。
それらの出来事が、真面目で一生懸命という話題とイコールかといったら、ちょっと違う気がするけれど、
年を重ねた今、真面目で一生懸命を笑うことへの不快感を感じる度に、私は、着崩している制服の周りの中で、一人だけしっかり制服を着て凛としているその子のことを思いだす。
真面目なこと、一生懸命なことは、かっこいい。そう、私がその子のことを凛として見えたように。
もし、真面目で一生懸命なことで、何らかの結果が伴っていなかったとしても構わないと思う。
そりゃあ結果は大事だと思うし、伴っている方が断然いい。
けれど、結果を重視してしまうと、結果的に、真面目で一生懸命が”非効率的でダサい”となってしまう懸念があるような気がする。
でも、それは私は安直だって思う。
先ほども言ったように、真面目で一生懸命はベースで、他の感覚を生かすことが出来るはず。
それで、結果的に、更に良い結果を生み出す基盤になっているはずだ。
一番に推奨していきたいところは、絶対的に人からの印象がいいと思うところだ。
私は、人間関係は信頼ができるかどうかで成り立っていると思っているから、人間関係をよいものとしようとするときは、真面目で一生懸命さがあるほうが、圧倒的に良い関係は築きやすいと思う。
なんか、話が横道にずれてきている感が否めないけれど(笑)、ここまでで私の言いたいことは伝わっているだろうか。
人によって価値観は違うし、私のように思わない人もいるだろうと思うけれど、真面目や一生懸命が笑われる世界ではあってほしくないと思う。
そんなことを考える、今日この頃でした。
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