私は、このブログでも、谷川俊太郎さんの「芝生」のことを記事で書いたことがある。
谷川俊太郎さんの詩が「好き」、というのはなんか違う。
「好き」は、私の中ではあまりにもチープに感じる。
もっと、もっと、濁っているけれど、とても神聖なもののような感情。
ガンジス川のような、そんな感じ。
谷川俊太郎さんの詩に、長けているわけではないけれど、
どんな嵐の中でも、そこに”ある”から頑張れる、と思えるような詩がいつでもあった。
「生きる」はとても有名な詩であるし、知っている人も多い詩だろうと思う。
「生きる」ことをうたった直接的だけど、宇宙のような深淵さを持っている詩。
私はこの「生きる」を題材とした曲を、中学の合唱コンクールで歌ったことがある。
その時は、なんて素敵な詩なんだろう、としか思わなかった。
でも、年を重ね、詩に触れる度に、肌触りは全く違う。
優しさを感じるときもあれば、辛辣さを感じることもある。
谷川俊太郎さんの詩は、
つらいから寄り添ってもらおう、なんて軽い気持ちで触ったら、
チクッととげが刺さる、なんてこともある。
それが意図的なのかも、意図的じゃないのかもわからないが、
谷川俊太郎さんが”そこにいる”気がして、何故かとても心地いいのだ。
伝わるだろうか、いや伝わらなくてもいい。
谷川俊太郎さんへの思いは、人それぞれでいいと思うから。
訃報を聞いた時、どうしていいかわからなかった。
悲しんでいいのか、泣いていいのか、それとも今までの思いを感謝するべきか。
いや、どれも当てはまらない、当てはめたくなかった。
谷川俊太郎さん、あなたは色んな物事を詩という言葉にしてきました。
けれど、私たちのこの感情は、いくら谷川俊太郎さんでも言葉には出来ないでしょう。
それは、私たちが言葉にしていきます。
谷川俊太郎さん、ありがとう。
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