私の中の遠藤周作

遠藤周作

※前もって言っておくが、遠藤周作作品を全部読んで理解しているわけではないし、研究者でもないから、ただの一般人の私にとっての遠藤周作という存在がどうか、ということであることは理解いただきたい。

私が遠藤周作に触れたのは、小学生の時、遠藤周作の半生をまとめたドキュメンタリーのようなものをテレビで見たことだったと思う。

その同時期に、妹尾河童の「少年H」のドラマを見たこともあって、何故か記憶がごっちゃになっていた。

しばらくしてから、「少年H」を読み、記憶が分別されていったのは覚えている。

そう、私は遠藤周作作品からというより、遠藤周作自身のことから知っていったのだ。

私の中の遠藤周作は、肺が弱くて、手術の途中で麻酔が切れて、我慢して乗り越えたというエピソードを持つ、クリスチャンで少し偏屈な男性。(これは完全な私の偏見)

そんな印象の遠藤周作の作品で初めて触れたのは、「海と毒薬」

生体解剖実験に関わる人々のことを、勝呂という登場人物の人間模様を中心に描いた作品。

遠藤周作はクリスチャンであり、多くの作品はキリスト教を題材にしていることが多いが、「海と毒薬」はキリスト教はあまり関係ない。だが、人の倫理観を考えさせる生体解剖実験を題材にしていることから、遠藤周作の根本に、倫理規範を主とする宗教があることがうかがえる。

この混沌とした作品に、得も言われぬ感覚を覚え、少しずつ遠藤周作作品を読むようになった。

もう一つ、私自身が遠藤周作に惹かれたきっかけになった作品が「沈黙」

これは何度も映画化もしており、知っているかたも多い作品なのではないかと思う。

江戸時代のキリシタン弾圧の中での、ひそかに入国した外国の司祭と隠れキリシタンたちの物語を、史実に基づいて描かれた歴史小説。

是非、読まれていなかたには読んでいただきたいのだが、私が一番「沈黙」の中で印象に残っている登場人物がいる。

キリシタン(キリスト教信者)と名乗っていながら、拷問を受けることを恐れて、何度も踏み絵を踏んでしまうキチジローという人物だ。

踏み絵はキリシタンを発見するため江戸幕府が使用していたもの。イエスの描かれたものを足で踏む行為させることをいう。

キリシタンの人が踏むのを拒んだり、躊躇したりするのを利用して、発見するのだ。

キチジローは、役人からキリシタンではないかと疑われるたびに、踏み絵を踏み難を逃れる。それを、隠れている司祭や、投獄されてしまった司祭のところへ赴き、懺悔しに来る。

「本当にイエスを信じている。だが、拷問の恐怖に耐えられずふんでしまうのだ」と。

読んでいた自分は、キチジローの気持ちがよくわかる気がした。

信じるものはあっても、恐怖や痛みに耐えることができない自分。それを悔やむが、それらに打ち勝つものがない自分。

「沈黙」を読んでいるときは、完全にキチジローに自分を投影していた。

自分だってその時代にキリシタンとして存在していたらどうだったであろうか。

きっとキチジローのようになっていただろう。

キリスト教を心から信じている。だが、拷問や殺されてしまう恐怖にはどうやっても打ち勝つことができない。そんな自分が嫌で仕方ないが、キリスト教を捨てることもできない。

私は「沈黙」を読んで、遠藤周作はどのようなことを思ってキチジローを描いたんだろう、いつも思う。

私のように投影するような気持ちだろうか。

キリスト教殉教者を神聖化させるため、ドラマチックに描くためだろうか。

その答えは、いずれかのエッセイなどで書かれていることかもしれないが、想像してみるところでとどめておきたい。

自分自身クリスチャンではないけれど、遠藤周作の作品はとても惹かれる作品が多く、自分でもなぜだろうと不思議に思う。

でも、同時になんだかよりどころがあるような安心感がある。

評論家でもないし、研究者でもないから、うまく言語化して語ることができないが、読んだことのない方には、一度は読んでいただきたい作家の一人、遠藤周作についてでした。

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