看護学生の時、雲の流れを見るのが好きで、みるたび「雲になりたい」と言っていた。
気流に任せて変化し、時にはかすんで消えていく雲。
水蒸気を含んで、時には雨を降らせる。
雲になんかなれるはずはない。
今も、その当時もそれはわかっていた。
だが、なりたかったのだ。
私は、よくできた学生ではなかった。
授業は居眠りはほとんどしなかったものの、それでも私より成績のいい子はいっぱいいた。
勉強はしていたつもりだったが、今思えば、勉強の要領が格段に悪かったのだと思う。
あまり、要領もよくないし、努力したつもりでも、それが実らないと感じていた。
劣等感を募らせるには、申し分ない状況だった。
そんな時、雲は格好の「現実逃避の対象」だったのだと思う。
雲になれれば、ここから消え去ることができる。
思い切り雨という涙を流すことができる。
今思えば、つらかったのだな、と自分を慰める気持ちになるが、当時は自分を慰めることがうまくできなかったのだろう。
こんなことを書くと、当時の友人にはびっくりされるかもしれない。
当時の私は調子乗りなタイプだったから。
でも違う。劣等感たっぷりで、人のやることを真似して、平均的な人間に必死でなろうとしていたのを、周りには悟られないようにしていた調子に乗ってみせる奴だった。
誰しも、思春期にはこういう二面性ってあったと思う。それが大人になるにつれ、自分を統合していく。
でも、きっと私はうまくできなくて、メンタルに支障をきたすようになったのかもしれない。
過去を振り返ってああだこうだいっても、過去が変化するわけではないし、過去は過去で思い出にしかならない。
でも、いま雲をみて思う。
「あの時の私は頑張っていたな」と。
劣等感でいっぱいで、現実から逃避するしか慰めようがなかった自分。
「つらかったよね」
「あなたはそのままで十分だよ」
今だったら、そう自分に伝えることができる。
今だって、雲を眺めることがある。
きっと、雲が好きなこともあるが、雲に慰めてほしいという心が残っているのかもしれない。
頑張ったってどうしようもないこと、努力したところで、要領悪くてうまくいかないこと、今でもいっぱいある。
自分で解消しきれない気持ちであふれかえることもいっぱいある。
そんな時は、あの時のように雲に気持ちを任せてみようかな。
そう思う、晩夏のまだ暑い今日この頃でした。
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