「自分は不器用な生き方しかできない」
というと、なんか美化した言い回しに聞こえる。
今回書くのは、そういう不器用さを美化して考えるものでなく、ある意味客観的に自分の不器用さを語るものであるので、あしからず。
あらためて、自分は不器用だと思う。
どうしてそう思うのかというと、まず、他人ができていることがうまくできないこと。あと、何度も失敗を重ねてようやくその物事を理解できる、といった感じ。
要領が悪いともいえるかもしれない。
子供のころは自分が不器用なことなど考えもしなかった。自分が不器用なのだ、と考えるようになったのは大人になってからだ。
まわりの人ができることが私はなぜできないのか、と考える場面が、大人になって社会に出てから多くなったからだろうと思う。
特に、コミュニケーションの場面で多い。(以前の記事で、コミュニケーションが難しいという件は書いているので、ここでは割愛する)
何故、人ができることができないのか。
何故、こんなにも習得に時間がかかるのか。
長らく、そんな悩みと付き合ってきた。
でも、もうそれはしょうがないということに気づき、そう思うことにした。
あきらめ、妥協、開き直り、そういう言葉も聞こえてきそうだが、ある意味戦略的にそれらを行ったと捉えてもらった方がいいと思う。
確かに、人よりできることが少ないかもしれない。
確かに、習得が遅く、時間がかかるかもしれない。
でも、何故できないのかを考えても、答えなどでなかったし、大きく改善することもなかった。
(改善に至っては、もっと努力すべき点はあったかもしれないが)
ならば、そういった自分がいることをまず受け止めることが必要だと思った。
「自分は不器用だ」
ならば、物事に取り組むときはイメージトレーニングや準備をしよう。
「自分は不器用だ」
ならば、うまくできている人の真似をして、自分なりのコツを掴もう。
「自分は不器用で失敗ばかりする」
失敗しない人間などいるのか?そうやって評価ばかりを気にしていないか?
まわりができて、自分ができないから駄目だ、なんて考えるのはナンセンスで、他人からしたら、私にもできている部分があるように感じてもらえているかもしれない。そもそも、そんなところなくたって、自分は自分でいいじゃないか、と思う。
しょうがない、は自己受容の言葉であって、あきらめの意味ばかりではない。
胸を張って、しょうがないと言っては反感を買うかもしれないが、自分も然りだけれど、こういった自分はダメだ、出来てないと強く感じてしまう人は、まず胸を張って「自分はこうだ!しょうがないのだ!」とは言えない人たちだと思う。
「自分は不器用でこういうところが不得意だ」
と考えたら、
「でもしょうがない、こういったところが自分だ」
と考える。
次に考えるのは、
「じゃあ、こういった特性を生かしてこうしよう」
「こういった失敗をしたから、じゃあこれは得意じゃないんだな、次はもっと丁寧にしよう」
などと、自責でなく、次に何ができるかを考えよう。
人に言えた立場でないのは重々理解はしていて、こういった記事も自分に省みて書いている。
不器用だけれど、自分には自分、その人はその人なりの生き方があっていいし、誰も咎めたりはできないと思う。
自分の生き方は自分の考え方によって決まる。
「こういった自分だけど、しょうがない!」そう思って、自分を受容しながら、心豊かな人生にしていきましょう!
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