みたいものを”みる”。

小学生のころから眼鏡ユーザーだったのだが、昨年ふとコンタクトにしてみようと思いたち、何年かぶりに眼科に行った。

コンタクトのことは問題なかったのだが、ひどいドライアイと正常内圧緑内障の疑いがあり、一か月後再診となった。

翌月再診にて視野検査実施、中程度との診断を受けた。

医療の勉強をしてきているから、緑内障が放置できるものではないことを十分理解していたし、緑内障はもう少し年齢を重ねてからなるものと思い込んでいたから、ショックは大きかった。

緑内障にも、眼球内圧が正常値を超えるものと、正常内圧内ではあるけれどもうまく眼球内圧が調整できていないものがある。前者は高齢者が多いが、後者は早くて40代から起こったりもするようだ。(私はまだ30代なのだが・・・)

緑内障は治療で完治することはなく、良くて現状維持をする治療しかない。放置すれば失明に至る。短期間でなるということではないが、中途失明者割合の大きい部分は緑内障と言われている。

私ももし眼科に行かず、緑内障とわからずに放置していたら、失明に近い形になっていたかもしれない。それを思うととても恐ろしいと感じる。(現在きちんと治療中なのであしからず)

なぜこのことを考えたかというと、最近こういうことがあった。

一か月前から、東京に行く予定を立てていた。

私は、休職してから、なるべく気分転換にと思って、好きな美術館巡りをしているのだが、来月の3月から再就職が決まったこともあり、その前に東京に美術館巡りの旅行に行こうと思ってだった。

だが、予定を立て、航空券、ホテルの予約、美術館の事前チケットとった矢先、伯父さんの危篤の知らせが入った。

伯父さんといっても、遠方におり長らく交流のない人だ。でも、母にとっては兄であり、伯父さんは独り身ということもあり、色々なことは妹である母や叔母さんにかかってくる。

亡くなっているのではないし、人の生き死にはコントロールなどできないから、いつ連絡が来るかという状況のなか、私は予定通りに行くべきかと迷った。

そのとき、人の生き死にと天秤にかけることが正しいかはわからないが、自分の緑内障のことを考えた。

もし私の緑内障がもっとひどかったら、私はどう考えていただろう。それを考えたとき、

「自分の目がしっかり見えるうちにみたいものをみたい!」

私は、そう思ってしまった。

私の緑内障は多少視野欠損している部分はあれど、自覚的に問題ない。美術展は巡回展もあるし、会期も長かったりするから、今回を逃してもいつかは見れるかもしれない。

でも、もう見れない可能性が少しでもあるのだ、と考えると、とたん行かない選択肢は消えていた。

選択が正しいとか間違っているとかは、横に置いておく。だが、今回のこの状況においてはこの選択をしたというだけで、状況によって何を大切にしなくてはいけないかは、今後もこういうことがある度に考えるだろうなと思った、今日この頃だった。

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