何が幸せで、何が不幸か。

最近はネガティブな感情が自分を覆う感覚があって、何も手につかなかった。

いわば、うつ状態であろうと思う。

でも自分は実家で暮らしており、身の回りのことは最低限出来ていれば生きていける状態。これは環境に感謝しなければいけないことだと思う。

でも、これは幸福なことなのか、不幸なことなのか。

前提として、本当に支えてくれる家族には感謝していることは書いておく。

幸不幸というのは表裏一体というか、考え方によって人それぞれ違ってくると思う。

心身ともに健康で、自分の理想通りに生きることができれば、それは万々歳。でも、ほとんどの人はそういう生き方ができない、もしくはさせてもらえないという環境にいるということが言えると思う。

でもそれは不幸だろうか。

私のようにメンタルでなくても、身体的に障害がある方も、五体満足=幸であるなら障害は不幸かもしれないが、その方程式は本当に正しいのか。

人生を語れるほど生きてはいないし、社会経験も少なく見てきた世界も限られているが、単純に幸不幸の二極に分けられるほど、人間は単純じゃないような気がしている。

私のことを例に挙げるとしたら、

A 精神的な障害を抱えており、社会活動、経済的な面において制限があり、不安や悲観的な感情を持つことが多い。

B その障害を理解し、生活面、経済面で支えてくれる家族がいる。

Aは一般的に不幸と考える。かたやBはどちらかといえば幸福だろう。

でも考え方次第で、(自分の考え方の偏向があることも承知で、誤解を恐れずに書くことにするが)

Aがあったとして、もしBの状態でなく、環境が障害の存在を認めてくれなかったら、もしかしたら社会に出ていかざるを得なくなり、障害と折り合いをつけながら、なんとか社会に出ていくことができる状態に自分を持っていくことができたかもしれない。

これは例えだ。障害は多種多様、これが正解と言いたいわけではない。

社会に出ていくことだけが幸福なわけではないが、私自身は、家でネガティブな感情に押しつぶされている状態でいる自分が歯がゆく、早く社会に出ていきたいと強く思うことがあり、Bの状態が私を甘やかしているのでは、なんて勘違いをしたりもする。

その勘違いがもし”正しい”のであれば、Bの状態は不幸であろうと思う。大方間違いだろうが。

Aについても完全に不幸だろうか。

障害はないに越したことはない。でももって生まれた性質、体質はそれぞれあり、社会の在り方によっても、障害のとらえ方も違うから、一昔前には障害とすら認識されなかったこともある。

それを考えると、誰しも何らかの障害を抱えているかもしれない可能性がある。

でも、そのみんながみんな不幸かといったら違う。

私自身も、Aのことがあるが、これによってものを考えるときに自分の考え方に偏りや癖があることにだんだん気づき、思考を深めることで、色々物事を考えるようになった。これは、きっとおおきな気づきだし、障害による収穫だと思う。

こういう収穫を、障害をもった人たちはきっと何かしら得ていると思えばこれは障害によって得られた幸だろう。

このことは、人により幸福とはいえない、と思われる人もいるかもしれないが、障害を持った一個人である”わたしにとっては”幸福なことだったと感じる。

前述したように、幸不幸というのは二極化して考えることはできないし、それほど人間生活というのは普遍的なものの上に、複雑に絡み合っている。

そんなとき考えたいのは、不幸の上に幸福は成り立つし、幸福の中にも不幸は潜んでいるということ。

物事は考え方次第とよく言われるが、本当にそうだと思う。幸福でも不幸を探せば、見つかったとき一瞬で不幸に変わるし、不幸と思われる状況でも、人の優しさや感謝に触れたら、幸福を感じる。

何が幸せで、何が不幸かなんて定義はない。

不幸な状況でも、自分が幸せと思ったら幸せでいい。幸せが感じれなかったら、自分にいっぱい優しくして感謝して、自分で幸せを作っていったらいい。

単純化できないといいつつも、世の中には幸せな人(自分でそう感じる人)が増えるといいな、そう考える今日この頃でした。

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