※長い記事になるため、時間のある時になんとなくで読んでいただいて構いません。
昔から、「普通になりたい」という感覚があった。
変人なのを、ある意味アイデンティティとしてアピールする人もいるけど、それとは逆で、いつもなにかと変に際立ってしまう自分が、嫌で嫌でたまらなかったから、普通でいようと強く思って行動してきたように思う。
幼いころはわからなかった。自分が変わっているということは。
小学校低学年のころは、「〇〇さんちのあやちゃんは…」とうわさの話題によく出るような子供だったと、後からだけど聞かされてきたし、その子供ながらに、周りの目が好意の目ではないことが、大きくなるにつれてだんだんわかってきていた。
考え方とかもそうなんだろうし、行動とかも、いわゆる”普通”の子ではなかったんだろうとは思うけど、自分にとってはそれが”普通”だったのだし、自分の考えや行いのそれらが「普通とは違うんだ」と思うごとに、自分自身を抑えるようになったように思う。
それでいえば、何がきっかけなのかは全然記憶にないのだが、私の記憶の中では、小学校4年生の時までに見ていた世界の色と、5年生の時からの見ていた世界の色が違う。
抽象的で申し訳ないのだが、その年を境に、私という人格が180度変わってしまったのではないかと思うくらいの感覚があるのだ。
本当に何があったのかは記憶にない。それほど衝撃的ではなかったのかもしれないし、成長の過程でたまたまだったのかもしれない。
でも、その小学校5年生あたりから、徐々に”普通”を意識し始めたようには思う。
体格もみんなと違っていたし、みんなが考えるようなことに対しても、あまり理解できなかったりしていたように思うけど、それらを強く主張するようなことはなかったと思う。
控え目で優しい、徐々にそんな表現をもらうような子になった。
もともとなのか、イライラしたりすることが少なかったし、怒りの沸点も高いタイプだったから、”控え目で優しい私”になった私は、親しい友達同士から取り合いになるほどになった。
小学校のころはそれでよかったのだと思うけど、中学校に上がると、私の”変さ”が隠し切れないようになっていった。
それを自覚するたびにごまかさないといけないことが、とても苦しかった。
それ以上になにが苦しかったって、みんなと同じことが出来ていない自分がおかしいと思い込んでしまい、自責が強くなっていたことだった。
それが所以か、中学校2年生の時は、素行が悪かったわけでもなかったのに学校に行きたくなくて、親に黙って学校をさぼる日が度々できた。
(まあ、後々に、心配した担任の先生が母に連絡したため、連絡を聞いた母から、家の脱衣場で質問攻めを受けるのだが)
でも母は怒ることはなかった。なんとなく、私が苦しいのはわかっていたのかもしれない。
後々聞いた話だが、両親は私を転校させることも検討していたらしい。(でも、検討しているうちに私が学校に再び行き始めたので、なしになったようだ)
さぼっていたのは、「何が原因だったか」なんてことを言える出来事を、鮮明に覚えているわけではないのだけど、今考えても、そうせざるを得ない状態だったのだろうと思うくらい混乱状態にあったのは確かだった。
思春期だし、みんなそれぞれあると思う。自分が特別なんて思ってはいないのだけど、そのころに私は、完全な《普通に憑りつかれた奴》になっていた。
普通に、休まず学校に行けること
普通に、生活リズムが整っていること
普通に、お風呂に毎日入ること
普通に、歯磨きを三食ごとにすること…
そんな細かなことも、ずっと、ずっと”普通”を意識していたと思う。
1つでもできなかった自分は、おかしい子。次第に、そう自分を責めるようになっていったのだ。
今考えたら、なんでも完璧に出来ないことこそが、”普通”なのだと思うけれど、その時は”普通”という妄想に憑りつかれた私が出来上がっていた。
視野の狭さとか、思い込みの強さとか、色んな要因があったのだと思う。
最初は、自分が人とは違うというところから、それが次第に、みんな(=普通の感覚の人)と一緒じゃないといけない、という強迫観念に縛られていったのだと、今は思う。
だが、視野が少しずつ広がってくることで、”普通”という概念が、まったくもって曖昧なものなのだということがわかると、徐々に呪縛が解かれたような気がする。
また、改めて自分が変だったのか、ということを考えると、やっぱり変わった子であったのは確かかもしれない。けれど、年を重ねると、意外に”みんな変だ”ということも分かってきたのだ。
あと、感じるのは、変だからと言ってみんながみんな嫌ってくるわけでもない、ということも徐々に分かってきた。
強迫的に”普通”に走らせたのは、人とは違う部分を持つ(=変な)自分を認められず、またそれによって人に嫌われるのを恐れた結果なのだと、今更ながら思う。
今だって、その感覚が抜けたとは言えない。
なんでみんなのようにフルタイムで働けないんだろう、などと、今でだって考える。
わかってはいる。自分がそれが”普通”と考えているだけで、人それぞれに”普通”があることを。
変な人でありたくない(=嫌われたくない)という自分の中の恐れがあり、それが自分の中の”普通”の妄想を増強させる。
そんな思考の癖が元凶だと、今は俯瞰的に考えたりする。
万人に好かれる人など皆無だし、みんな多少の差はあるがそれぞれの”変さ”を持っている。
いわば、みんな『変人』なのだ。
狭い視野でしか見えない、自分のなかの”普通”から逸脱したとして、生きていたらいけないわけでないし、ましてや、そんな自分自身を否定しなくてもいい。
多様性が叫ばれる昨今だから、余計に、『変人』のままの自分でいいのだ。
それを嫌うか、認めるかは、他人に任せたらいい。
地球には70億人以上いるのだから、日本で嫌われるなら、海外に出ればいい。
(どんな人であっても、きっとそこまで嫌われることはないだろうとは思うが)
それくらいの気持ちでいればいい、と思う。
苦しかった学生時代の自分には、今の自分は何もしてあげられることはないけれど、
もし、私のように”普通”であることに囚われて、自分を変人だと思って苦しんでいる誰かがいるなら、私自身も変人だと自覚して、
『変人のあなたであっても、そのままで十分素敵だよ』
と言ってあげたい。
そう、自分がきっと、子供のころや学生時代に言ってほしかっただろう言葉を。
気休めにしかならないかもしれないけどね。
そんなことを、「自分って変だよなあ」と感じた最近思うこの頃でした。
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