何かをしてもらってそれが当たり前なんてことはない。
これは家族関係においても、恋人関係や友人関係においても、すべてにおいて言えると思う。
このことをしっかり思い直したので話そうと思う。
この言葉は、二通りのパターンで使うと考える。
① 何かをしてもらったときに感謝の言葉すらも伝えない人へ
② 他人へ奉仕型の関わりをしてしまう人へ
なんとなく①はイメージがつくと思うが、
私は、②の人へ思いを伝えたい。
このことを考えたのは、自分自身も、他人への関わりが奉仕型になってしまうことがあるからなのだけど、②のパターンの人の多くは、感謝の言葉などの単純なものだけでも、「見返りを求める感情がある自分が悪」のように考えてしまうように思うから。
もちろん、見返りを求めること自体、悪でも何でもない。
ましてや、感謝の言葉なんて、何かをしてもらったら伝えるのは当たり前のことだから、受けとってもなんら問題はないはずだ。
そして、見返りと言っても、このような奉仕型の関わりをしてしまう人は、感謝の言葉だけでも十分な場合も多い気がする。
本来なら、奉仕型の関わりはやめた方がいい、といいたいのだが、自分もそうだし、性格や気質上仕方のないこともあり、ここでは言及しないでおく。
重ねていうようだが、見返りを求めるのは悪いことじゃない。
確かに、相手の嫌がることを求めるようなことでは本末転倒であるわけだが、ちょっとした優しい言葉をかけてもらうことを期待したり、ありがとうといってもらうことを期待したりして、何が悪いと思う。
そう、見返りを求めてしまう自分の感情は、全然悪じゃないんだ、きっと。
何かをしてあげたい気持ちは、その人の、相手への厚意だ。
それがおせっかいになる場合もあるかもしれない、相手にとって。
でも、その人なりに、相手のためを思ってすることであり、優しさであり、人によっては義務感でもあるかもしれない。
それに対し、それらを「してもらって当たり前」なんて思うのは、冷静に考えて「お前は何様だ」と思うわけだ。
いや、「してもらって当たり前」と考えてくれるだけましかもしれない。
大体の人は、その「してもらって当たり前」すら、無意識になっていることがあるから。
親の愛情、特に母親の愛情は無償の愛と言われ、「してもらって当たり前」と思われてしまう最たるものだと思う。
子供なんか、そこまで思い至らないし、少なくとも義務教育までは親には養育する義務があるから、そう思われても仕方ない。これはもうしょうがない。
でも、いつまでたっても、親からしてもらうことは「してもらって当たり前」か?と思う。
いつまでたっても、”無償の愛”を求められたら、親はいつになったら報われるのだろう。
「報われることを期待するな」と言われそうだが、本当にそういう人は、他人に対し、厚意をもって何かをしてあげてみてほしい。
それが報われないと感じるときに、どんだけの悲しみがあるか、それを知ってほしい。
人に自然に何かをしてあげられる人は、基本的に見返りなんて求めてはいない。
ただ、その人のためにしてあげたいと思ったからしたまでなんだと思う。
だからと言って、それが「してもらって当たり前」にはつながらないんだ。
他人に自然に何かをしてあげられる人は、基本的に優しい人なんだと思う。
だから、他人の「してもらって当たり前」を目の当たりにすると、きっと見返りを求めてしまった自分を責めるんじゃないだろうか。
でも、「してもらって当たり前なんてことはない」
それが、何かの対価としてしたことでないなら特に。
まあそれでも、「してもらって当たり前」と思う人は少なくはならないし、ある一定数は必ずいる。
それはもうあきらめよう。
そして、自然にしてあげられるあなたの優しさはそのままでいいから、「見返りは悪」と思わず、きちんをあなたの厚意を受け取って返してくれる人と関わろう。
報われないな、と傷つく必要はないからね。
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